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東京地方裁判所 昭和50年(ワ)4876号 判決

原告 三橋道郎

〈ほか一名〉

原告ら訴訟代理人弁護士 中野保男

同 矢田久芳

同 中田真之助

被告 滝口光雄

右訴訟代理人弁護士 饗庭忠男

主文

一  原告らの請求はいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告三橋道郎に対し、金七四五万九一五五円、原告三橋利匡に対し、金九九一万八三一〇円および右各金員に対する昭和五〇年六月一九日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求の原因

1  当事者

原告三橋道郎(以下原告らの姓は省略する)は、訴外亡三橋千鶴子(以下「千鶴子」という)の夫、原告利匡は、右夫婦間の子(昭和四九年二月一一日生)であり、被告は、滝口産婦人科医院を経営する医師である。

2  診療契約

千鶴子は、昭和四八年六月一三日被告との間で、妊娠、分娩に関する診察、治療を目的とする準委任契約を締結し、同日から昭和四九年二月一一日まで定期検診その他のため被告の診療を受けた。

3  原告利匡の出産と千鶴子の死亡

千鶴子は、昭和四九年二月一一日午前三時四五分ころ滝口産婦人科医院において原告利匡を出産し、同日午前五時四〇分ころ社会保険船橋中央病院(以下「船橋中央病院」という)において死亡した。

4  千鶴子の死因

千鶴子は、原告利匡を出産する際に、一〇〇〇c.c.を相当上まわる出血をしたため、出血性ショックにより死亡した。

すなわち、千鶴子は、被告が胎盤の鉗子剥離を試みた直後にショックを起したが、胎盤皿に千鶴子の出血が約八〇〇c.c.溜ったうえ、千鶴子の身体、衣服に流れ付着した血液、医療器具、被告の両手に付着した血液の量を合計すれば、千鶴子の出血量は一〇〇〇c.c.を相当上回っていたことは明らかであるところ、右異常出血のために出血性ショックを起して死亡したものである。

5  被告の責任

千鶴子の死亡と被告の後記(一)、(二)の債務不履行もしくは過失との間には、それぞれ相当因果関係がある。

(一)止血処置の不適切

被告は千鶴子が出血性ショックをおこすほど出血をしたのであるから、フィブリノーゲン等の強力止血剤を投与すべきであるのにかかわらず、止血剤としては効力の弱いアバチームを投与しただけであった。

(二) 輸血処置の不適切

被告は、千鶴子の妊娠初期である昭和四八年七月一一日の定期検診で出血があったから、胎盤癒着のために胎盤剥離が困難になることを十分予期し、胎盤剥離に伴う出血に対処すべく十分余裕をもって輸血の準備を行うべきであるうえ、産婦人科学界では一般に異常出血は五〇〇c.c.以上とされているが、個人差があり七〇〇c.c.で出血性ショックを起す人もあり、出血量の正確な測定が困難であり、かつ急激な大量出血があること、更に出血が続くか否か適確に判定しがたいこと等から、出血量が五〇〇c.c.に達するまでは輸液を行い、それ以上出血すれば輸血を開始すべきである。したがって、第一回のショック時である午後四時一五分ころには少なくとも輸血の処置を行わなければならない。にかかわらず、何らの準備もせず、右ショックの直前になって市川市の血液銀行である島崎薬局に電話し、しかも電話が通じないまま第二回目のショックが発現している。被告とすれば、島崎薬局との連絡がとれないときは救急車の出動あるいは救急病院への緊急連絡等の非常手段で輸血の準備、処置を行うべきであるにかかわらず、これらの処置を怠り、ただその間、リンゲル液(輸液)五〇〇c.c.の点滴等を行ったにすぎない。しかし、輸液のみでは循環血液量が増加するだけで、血色素濃度が薄められ、酸素交換や血液凝固性にとって不利な状況となり、又出血傾向が起りやすい等の副作用があるので、医師としては輸血開始時期を適切に捉えなければならない。

6  損害

(一) 原告らが相続した千鶴子の損害賠償請求権

千鶴子は昭和一一年一一月二五日生(死亡当時三七歳)の主婦であって、昭和四七年賃金センサス第一巻第二表の産業計・企業規模計・学歴計の年齢別平均給与額(含臨時給与)によれば、月額六万八二〇〇円の所得があり、その二分の一を生活費として控除した後、就労可能年数表(政府の自動車損害賠償保障事業損害査定基準)により就労可能期間(三〇年)中の中間利息を新ホフマン式計算法(係数一八・〇二九)により逸失利益を算出すると、金七三七万七四六六円である。原告道郎はその三分の一である金二四五万九一五五円を相続し、原告利匡はその三分の二である金四九一万八三一〇円の損害賠償請求権を相続した。

(二) 原告らの慰謝料

原告らは被告の重大な過失により、妻であり、母である千鶴子を失い、精神的打撃は甚大なものがあるから、原告両名の慰謝料は、それぞれ金五〇〇万円が相当である。

7  結論

よって、被告に対し債務不履行または不法行為に基づき、原告道郎は金七四五万九一五五円、原告利匡は金九九一万八三一〇円および右各金員に対する弁済期の後である昭和五〇年六月一九日から完済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求の原因に対する認否

1  請求の原因1ないし3は認める。

2  同4、5は否認する。

3  同6は全部争う。

三  被告の主張

1  千鶴子の死因

千鶴子は、出血性ショックによってではなく、胎盤の一部剥離面からの血管性出血のため、羊水塞栓―肺塞栓―急性肺性心という発生機序をたどって死亡したものである。

すなわち、千鶴子の分娩開始より死亡までの出血量は、ほぼ八〇〇c.c.であり、原告主張の同女の身体、衣服等に付着した血液の総量を合算してもせいぜい五〇c.c.程度のものである。出血性ショックは循環血液量の三五%ないし五〇%、一八〇〇c.c.ないし二〇〇〇c.c.程度の出血量となった場合に不可逆的な重症となるものであって、八〇〇c.c.程度では出血性ショック死に至るとは考えられない。

死亡に至る出血性ショックでは、定型的な臨床症状として、出血量の増大にともないチアノーゼの出現、血圧の徐々の低下、呼吸促迫などが認められねばならないが、千鶴子の臨床症状は午前三時四五分ころ原告利匡を出産した後、被告が胎盤の用手剥離に続いて鉗子剥離を試みたものの、卵膜が索状にちぎれるのみで依然として胎盤の娩出は不可能であったところ、突然、千鶴子は「苦しい」と大声で叫びながら暴れ、けいれん発作を生じ、全身がこわばったようになり、両腕を曲げて胸の前でもがくようにしてショック状態になり、血圧は四〇ないし〇に下降した。これは右の死に至る出血性ショックの定型的な臨床症状とは全く異るものである。

これに対して、羊水塞栓は、羊水成分が母体血中に流入し、母体に急性ショックを起すものであるところ、臨床的には、突然胸内苦悶を訴え、不穏状態を呈し、チアノーゼ、呼吸困難、けいれん発作をおこし、肺では著明な水泡音が聴取され、血圧は低下し、脈拍は非常に速くなり一分間に一五〇を越すことも稀ではなく、このような状態から突然急死するというものであり、千鶴子の臨床症状は、羊水塞栓の典型的な発現として理解できるものである。

2  被告の医療行為

(一) 止血処置について

被告は千鶴子に対し止血処置のため子宮収縮効果のあるオキシトチン(アトニンO)及びスパルティンの静脈注射を行っており、なんら非難される理由はない。

原告主張の止血剤フィブリノーゲンは、いわゆる弛緩性出血と呼ばれてきたもののうち、血液凝固障害を伴う低線維素原血症、無線維素原血症には劇的に奏効するが、線維素原血症欠乏がない出血には効果がなく、鼻血すらも止めることはできないものである。

本件では、胎盤皿に溜った血液が凝固したうえ、被告医院においてガーゼを充填してから約三〇分後に船橋中央病院に到着した直後、千鶴子の出血部位(外陰部)を開いたとき、臀部の下に当ててあった綿花には血液が滲みておらず、膣内のガーゼも血液は附着していなかった。右の事実からみて、血液凝固障害はなかったのであるから、フィブリノーゲン投与の必要性はない。

(二) 輸血処置について

被告は輸血についても適切な処置をとった。本件の場合千鶴子の妊娠初期において分娩時に胎盤癒着を生じる虞れはなかったものであり、被告は千鶴子に対し、分娩後約七〇〇c.c.の出血をみた段階で、午前四時ころより輸血準備のためリンゲル液五〇〇c.c.の点滴を開始しており、午前四時一五分ころ胎盤の用手剥離を試みたが容易に剥離しないので、被告が従前から依頼し、開腹による子宮摘出の緊急手術をすることができる船橋中央病院へ移送することが必要であると判断し、直ちに輸血、手術準備のため看護婦に電話連絡を命じたが、電話は一〇数回継続してかけてもつながらず、血液の手配も、市川市の血液銀行である島崎薬局へ電話連絡したが、これもつながらず、一一九番に電話して急送を求めた。さらに被告は、四時半ころ千鶴子に対する用手剥離を断念し、胎盤鉗子による除去を試みたが、胎盤の娩出は不可能であった。ところが、突然四時四五分ないし五〇分ころ第一回のショックが発現したものであって、右の被告の一連の処置はいずれも輸血のための準備に他ならず、いずれの処置も適切であった。

輸血の時期について、最近では、産婦人科領域における五〇〇c.c.ないし一〇〇〇c.c.程度の相当量の出血の場合にも、なるべく輸血を行わず代用血漿(血漿増量剤)などの輸液によって状態を改善しようとする傾向に変ってきたのが常識であり、五〇〇c.c.以上で直ちに輸血をする必要はないとされている。

以上、要するに、本件の非出血性ショック(羊水塞栓)は、これを予見することが不可能であるところ、本件では、瞬時にショックに陥り、ごく短時間に不可逆的な状態に達しており、ショック対策は行ったものの、激烈な型に属するものであったため、結果回避はなしえなかったものである。

四  被告の主張に対する原告の認否

被告の主張は全部争う。仮に羊水塞栓による産科ショックが死因としても、被告はこれに適切な治療を行ってはいない。

第三証拠《省略》

理由

一  当事者

原告道郎は千鶴子の夫、原告利匡は右夫婦の子であること、被告は滝口産婦人科医院を経営する医師であることは、いずれも当事者間に争いがない。

二  診療契約

千鶴子が、昭和四八年六月一三日被告との間で妊娠、分娩に関する診察、治療を目的とする準委任契約を締結し、同日から昭和四九年二月一一日まで被告の診療を受けたことは、当事者間に争いがない。

三  千鶴子の死亡に至る経緯

1  千鶴子が、昭和四九年二月一一日午前三時四五分ころ、滝口産婦人科医院において原告利匡を出産し、同日午前五時四〇分ころ、船橋中央病院において死亡したことは、当事者間に争いがない。

2  前記1の事実並びに《証拠省略》を総合すると、次の事実を認めることができる。

(一)  妊娠から出産まで

(1) 千鶴子は、昭和一一年一一月二五日に出生し、満三七才の高年初産婦であったところ、昭和四八年六月一三日被告の診察を受け、妊娠三か月、分娩予定日は昭和四九年一月二〇日と診断された。

(2) 被告は昭和四八年七月一一日の定期検診時に、千鶴子に出血があったため、切迫流産の虞れがあると判断し、特効薬である黄体ホルモンのプロルトンデポーを注射し、流産を免れた。

(3) 千鶴子はその後の定期検診では異常がなく、同年一二月一四日(妊娠第九月後半)の診察で尿蛋白が陽性になったものの、血圧は最高一〇〇mmHg(以下単位は略す)、最低六〇で正常であった。

(4) 昭和四九年一月八日の診察では、血圧が最高一五〇、最低九〇、尿蛋白に異常はなく浮腫もなかった。そこで被告は千鶴子を晩期妊娠中毒症の軽症と診断し、降圧利尿剤アクセント(一日二錠、一週間分)を投薬した。

(5) 同月二一日(分娩予定日を一日超過)の診察においても、千鶴子の血圧は最高一五五、最低九〇であったため、被告は再びアクセント錠を投薬した。

(6) 同月三〇日(予定日を一〇日超過)の診察の結果、千鶴子の血圧は最高一四〇、最低九〇、尿蛋白、浮腫ともに(一)となり、被告は、妊娠中毒症が殆んどなくなったものと診断した。

(7) 同年二月九日(予定日を二〇日超過)、千鶴子は少量の出血があったため、被告の診察を受けると、子宮口は直径三、四センチメートルに広がっており、先進部には児頭があったが、特別の処置は必要がなかった。

(8) 同月一一日(予定日を二二日超過)午前〇時ころ、千鶴子は陣痛があったので、実母の岩田はつに付添われて被告の滝口産婦人科医院に入院した。

(9) 被告は午前二時過ぎころ、千鶴子を診察すると、子宮口は全開になったものの児頭の位置が未だ高いため、三、四〇分待機していたが、午前三時ころになっても児頭の位置が余り下がらないので、陣痛が微弱であると考え、吸引分娩を開始したところ、千鶴子は三時四五分ころ、原告利匡を出産した。しかし、胎盤の機能障害のため、利匡は体重二七〇〇グラムで泣き声に力がなく、全身の筋肉の緊張もなく、皮層には皺が多く、臍帯は軟かく黄色に染っていた。

(二)  出産後死亡まで

(1) 被告は直ちに千鶴子の腹の上から子宮をマッサージし、胎盤を出すために臍帯を軽く引いたが胎盤が癒着し剥離する様子は全くなかった。そこで子宮の収縮を促して胎盤を剥離させるため、子宮収縮剤オキシトチン(アトニンO)を一c.c.皮下注射し、同じくスパルティンを一c.c.静脈注射したが、少しも胎盤が剥離せず、このころまでに出血は約二〇〇c.c.ないし三〇〇c.c.位胎盤皿に溜った。

(2) 被告はなおも臍帯を軽く引っぱり、千鶴子の腹の上を押したものの胎盤が出てこないので、経過観察を行い、その間に会陰部裂創の縫合を行ったが、右裂創からの出血は殆んどなかった。

(3) その後千鶴子の出血が少しづつ増えたけれども、出血の状態は少し出たあと一〇秒位止り、また、少し出て一〇秒位止るという断続的な出血であって、色は暗赤色であり、従前の経過から被告は胎盤の剥離異常と考え、手を膣から子宮の中に入れて胎盤と子宮壁の間に挿入し手で胎盤を剥離する用手剥離を行うことにした。

(4) そこで被告は、胎盤の用手剥離中、不慮の大出血により出血性ショック等が発生する場合に備え、予め血管を確保して循環血液量を維持し輸血の前準備のために、千鶴子に対しリンゲル五〇〇c.c.の点滴を開始した。右点滴のために血圧を測定した結果、最高一二〇、最低八〇であり、静脈はより怒張していた。

(5) さらに被告は、千鶴子の子宮収縮をさせて胎盤剥離面からの血管性出血を止める目的で、オキシトチン一c.c.を皮下注射し、スパルティン一c.c.を点滴のゴム管内に注入した後、胎盤の用手剥離を試みたが、剥離する部分が判らなかった。それまでの出血量は約五〇〇c.c.であり、その後次第に増えていったが、以前と同様に暗赤色の血が断続的に少しづつ出る状態であった。

(6) そのため被告は、二か月に一回位患者を移送していた船橋中央病院に千鶴子の子宮摘出手術を依頼するため、看護婦である妻に対し中央病院へ電話するように命じ、看護婦は約一〇回位同病院に電話をかけたがつながらなかった。

(7) その間に、被告は用手剥離を断念し、胎盤鉗子による剥離を試みたが、胎盤表面の卵膜が索状にちぎれるのみで依然として全面剥離しなかった。このときまでの出血量は、約七〇〇c.c.ないし八〇〇c.c.に達した。

(8) 被告が胎盤鉗子による剥離を開始し、リンゲルを二本目に交換した後、千鶴子を船橋中央病院に送るまでの間、被告は看護婦に対し輸血をするため、市川市の血液銀行を代行している島崎薬局に電話するように命じたが、ここもまた電話は通じなかった。

(9) ところがリンゲルを二本目にかえてまもなくである午前四時四五分ころ、千鶴子は突然、大声をたてて苦しみ出し、両手を胸の前でもがくようにして暴れ、胸内苦悶、呼吸困難を起したため、被告は胎盤鉗子を離し点滴針を挿し直したところ、血管はよく怒張しており、静脈血が針の中に逆流した。約一〇秒ないし二〇秒の間、看護婦と共に千鶴子を押たところ、全身のけいれん状態がとれた。すると、急に千鶴子の力が抜けたので血圧を測ると最高四〇最低〇に下降していた。

(10) 被告は心臓発作を疑い、直ちに強心剤であるカルニゲン二c.c.二本と、副腎皮質ホルモン剤のデカドロン一本を点滴のゴム管内に注入した。そして、右手で千鶴子の左胸部を叩き、二、三回大声で「ここが苦しいか」と叫んだ後、血圧を測るとやや改善し、千鶴子は僅かに応答するようになった。しかし再び症状が悪化し、カルニゲン二c.c.三本、強心昇圧剤エフォチール一c.c.を注入したが、血圧は上がらなくなり、点滴も落ちなくなったうえ自発呼吸もしなくなったので、看護婦が人工呼吸を始めた。

(11) そこで、午前五時ころ、被告は看護婦を通じて救急車を呼び、五時二二分ころ千鶴子らと共に救急車に乗り、引続き心臓マッサージと車内取付アウトレット蘇生器を使用して人工呼吸をしたが自発呼吸をせず、救急車が船橋中央病院に到着した五時二九分前後に死亡するに至った。

(12) 千鶴子らが船橋中央病院に到着してから約一〇分後、同病院の当直医矢野が千鶴子を診察したところ、同女の尻の下に敷いてあった綿花には全く血が付着していなかった。

同病院の産婦人科医長片山医師は、同日、被告から千鶴子の症状を聴取し、死亡診断書の死亡原因欄に、癒着胎盤ないし妊娠中毒症に起因する出血によるショック死と記載した右診断書を作成した。

四  千鶴子の死因

千鶴子の死因について、原告らは出血性ショックである旨主張し、被告は肺塞栓(羊水塞栓)である旨抗争するので、以下この点について検討する。

《証拠省略》を総合すると、出血性ショックは、循環血液量減少性のショックであり、血液が不足して体中の組織に充分な血液を送ることができなくなって起るものであり、そのため出血量が問題となるが、分娩時において、出血性ショックに陥り死に至る出血量については、個人差も大きく、出血の状況および出血をおこす以前の状態によって左右されるものの、少なくとも一〇〇〇c.c.以上の出血があると死亡に至ることが認められる。

他方、《証拠省略》を総合すると、肺塞栓は、羊水塞栓も含めて肺の動脈が何らかの原因で塞栓を生じるものを総称し、循環血液量の減少とは無関係であり、その臨床症状は、呼吸困難、胸痛、咳、血痰、発汗、意識消失、血圧降下等のショック状態となるものであることが認められる。

そこで千鶴子のショック前後の状況についてしらべてみるに、前記認定の事実並びに《証拠省略》によると、次の事実が認められる。

1  本件のショックは、被告が千鶴子に対し胎盤鉗子による胎盤剥離を開始し、胎盤表面の卵膜が索状にちぎれて出る状態となった直後にショックが起った。

2  右ショックは急激に発生し、千鶴子は両手を胸の前でもがくようにして胸内苦悶と呼吸困難を訴えた。

3  右ショック直後も、千鶴子の腕の静脈はよく怒張しており、循環血液量の減少はみられなかった。

4  血圧は、鉗子および用手剥離を試みる前は最高一二〇、最低八〇であったが、ショック後急に低下し最高四〇、最低〇となった。

5  千鶴子のショックまでの出血量は約八〇〇c.c.位であり、出血も少し出ては止り、また少し出るという状態が続いた。

6  千鶴子のショック前の一般状態は特に異常がなかったが、右のような急激なショックにより、約一時間後の船橋中央病院到着前後には死亡するに至った。

(なお、原告らは、千鶴子の出血量が一〇〇〇c.c.以上であった旨主張し、証人岩田はつ、同田仲弘子は、千鶴子が着用していたシャツ、同女の手や足の爪、腿の付近にも血液が付着していた旨それぞれ供述しているけれども、前記認定のとおり、千鶴子はショック時に胸内苦悶を訴えて暴れたりしたので、被告が血で汚れた手でこれを押えたため、その際、同女の衣類、身体に右血液が付着したものと推測できる。してみると、右付置した血液量は僅かであるから、これを合計してみても千鶴子の出血量が一〇〇〇c.c.を上回っていたとは到底考えられない。)

以上認定の出血量、出血状態およびショック前後の状況等から併せ考えると、千鶴子の死因は、出血性ショックではなく、むしろ肺塞栓によるショックであると認められる(被告本人の供述によれば、船橋中央病院の片山医師は、千鶴子の死後、被告から臨床経過を聴取し、羊水塞栓を疑ったが、右は稀有な疾患であり解剖にも付せられていないため、死因を羊水塞栓とは断定できないので、結局死亡診断書(甲第三号証の二)には、直接死因欄に「ショック」と、その原因欄に「出血」と、それぞれ所見のみを羅列したにすぎないことが窺われるので、同号証の記載は前記認定を左右するに足りない)。

五  被告の債務不履行もしくは過失の有無

1  止血処置について

前記認定のとおり、被告は千鶴子に対する止血処置として、オキシトチン(アトニンO)およびスパルティンの静脈注射を行っているが、《証拠省略》によれば、分娩時の異常出血に対しては、他の出血の場合と異なり、子宮収縮をはかることが適切であるところ、被告がなした処置は速効性のある子宮収縮作用をねらったものであって、産科医として妥当な処置であり、また、フィブリノーゲンの投与については、一般の出産のときは全く不要であることが認められる。

したがって、被告の止血処置に過失があったものとはいえない。

2  輸血処置について

前記認定のとおり、千鶴子の出血は急激ではなく徐々におこり、被告は胎盤の用手剥離を試みる前、輸血準備のためのリンゲル五〇〇c.c.の点滴を開始し、ショック後は強心剤カルニゲン二本と副腎皮質ホルモンのデカドロン一本を点滴のゴム管内に注入した。

ところで、《証拠省略》を総合すると、一般に産婦人科においては、出血量が五〇〇c.c.を越えれば輸液で輸血の準備をし、一〇〇〇c.c.上回れば輸血の処置をとることが多いので、被告のなした右処置はいずれも適切であり、胎盤癒着を予見することは困難であるのみならず、本件においては、千鶴子の死因が肺塞栓によるショックであるので、この場合には、むしろ輸血は禁忌であり不適当であることが認められる。

したがって、被告の輸血処置の点についてもなんら過失は認められない。

しかも《証拠省略》によると、本症は、きわめて稀な疾患である点から、患者が突然胸内苦悶を訴えた時点において、産科医として本症の疑いをもつことはできても、確診することは困難であり、しかもショック後約一時間以内に死に至った激症のため、適当な処置をとっても救命の可能性は少ないし、仮に帝王切開手術をしても死亡を避け得たかどうか不明である。

してみると、本件はまことに不幸な事案ではあるが、被告のした医療行為にはなんら適切を欠く点は認められない。

六  結論

よって、原告らの本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく失当であるから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 土田勇 裁判官 横山匡輝 六車明)

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